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日直地獄

小学校では事件が起きる

たほいやと面雀

今日久しぶりにたほいやをやった。自分の言語感覚に絶望したことは置いて置いて置いて頂戴。


二つに共通するのは言葉遊びと想像力だ。しかしながら要求される想像力ベクトルは全く違うと思う。


たほいやに要求される想像力は、文字から語感を切り出し、意味づけをしていかにそれっぽい言葉を生み出すかどうかが鍵になってくる。やたらと辞書っぽい解説が生み出されたり、アクロバティックな解釈で意味づけしたり、多数の人間の意味ベクトルが収束された時になんかに面白さが生み出される。正解というゴールに向かう力が面白さを生み出す。つまり入り口が非常に広く、出口は非常に狭いといえるんじゃないか。

面雀は、手札が13枚とすると自分では26種類の回答しか作り出すことができない。非常に限定されているといえると思う。では面白さという価値を何処でつけるのか。それは解説や話術、面子の反応によるものが大きいと思う(もちろん作り出された単語の面白さもあるだろうがやはり限定されていると言わざるを得ないと思う)。情報を付加した時に新たな価値と意味が生み出されるものだと思う。こちらは入り口が狭く、出口が広いものだと言えるだろう。


ゲームとしてはたほいやの方が成立させやすい。正解があることに加え、ひどい解答も数の中では意外と目立たないし(もしくはスルー)、特に話術は必要ではないからだ。その点、面雀は人員の面で非常にデリケートなものだといえる。

たほいやの方が疲れる。語感だけを頼りに意味を想像するのはとても頭を使う。漢字当て嵌め、人名、地名、などいくつかのテンプレはあるものの、それを語感とそれをどう繋げるのかが頭を悩ませるのであります。例えば今日出た「えいう」。何も頭に浮かんでこなかった、わしゃこの脳がにくらしいよぉっ!


あー、修行しよう。