「アベかコベかは主体によって決定されるんだよ」
ドラえもんは残念そうにそう言って、僕にあべこべミラーを差し出した。僕はもうこの貧乏生活には飽き飽きしていたし、あほみたいな仕事もしたくないし、この先も幸せなんてないだろう。それならさっさとドラえもんの道具にすがってしまった方が楽だ。ドラえもんもこんな僕と付き合うのはもう懲り懲りだろう?
あべこべミラーは、世の中の全てが真逆になった世界が写る。そして今、鏡に映るドラえもんはニコニコ顔で僕の後ろに立ち鈍器を振りかぶっている。これは鏡の中に入るための儀式…。ドラえもんの目が限界まで見開かれ、後頭部に鈍器を振り下ろされた。僕は顔面から鏡に突っ込んだ。
目が覚めたとき、僕はふかふかのベットの上に横たわっていて、目の前には豪華なシャンデリアがぶら下がっていた。自分の体をさすってみた。腹の回りに溜まっていた贅肉はきれいさっぱり消えており、年齢もかなり若返った感じだ。股に手を当てると、そこにはいちもつは存在していなかった。壁にぶら下がった真っ赤なカレンダーは週休五日制をはっきりと示していた。すばらしい。これからすばらしい生活が始まるのだ。僕は幸せな未来に向かって勢い良く扉を開いた。一歩踏み出したところで上から何かが降ってきて、目の前が真っ暗になった。
突如として襲い掛かってきた傴僂のしずかに貫かれながら、獣のような喘ぎ声を耳元で聞きながら、この世界のことをぼんやりと考えていた。ドラえもんはアベかコベかは主体が決めるんだといった。まったくドラえもんは難しいことを言う。なぜそれが僕のこの状況を導くのか。主体は鏡を使った僕。ではあべこべになれるものってなんだろうか?「右と左」「男と女」「平日と休日」「若と老」うーん。「金持ちと貧乏」「美と醜」「好きと嫌い」「天と地」
そこまで思い至った瞬間、ゴーっと激しい音を立てすごいいきおいでしずかは天井に向かって落ちていった。横たわっていたベットは床に向かって落ちていった。カレンダーは壁へ落ちていった。あわせて床や天井も遠くに落ちていった。辺りに何もなくなり真っ暗になった。上も下も良く分からなくなった。
僕は何もない空間を胡坐をかいて漂いながら考えつづけた。僕の都合で世界が変わったのはなぜか。僕が天と地を意識するまで世界に変化がなかったのはなぜか。僕の環境を、世界を不幸と規定していたのは誰かということ。ああ、僕だ。世界が反転したことで、それをはっきりと認識できた。ドラえもんが言いたかったことはそういうことだったのだ。不幸は塊じゃない。僕の不幸の隣には幸せが存在していたのだ。そうか!そういうことだったのか。ありがとうドラえもん。
僕は握りこぶしを頭上に掲げ「過去と未来」と叫んだ。すると壁や天井、しずかが闇から戻ってきて元の部屋を形成した。時間が逆流しているのだ。僕の身体は逆流しながら、こうやって物を考えることが出来ているのは、思考が時間の拘束を受けないからなのだろうか。そうだとしたらありがたくこの時間を使わせてもらおう。ちゃんと考えたこと、分かったことをドラえもんにちゃんと伝えなくちゃ。
気がつくと元の部屋に戻っていた。鏡の向こうのドラえもんは相変わらずニコニコ顔で鈍器を振りかぶっていたけれど、僕は、鏡越しにドラえもんをしっかりと見つめ、精一杯のごめんなさいとありがとうを伝えようと口を開いた。
「僕は・・・」
ドラえもんはすっと僕の口の前に丸い白い手を差し出し、僕の言葉をさえぎった。攻撃的な体勢にそぐわないニコニコ顔は厳しい顔に変わっていた。そのまま片手で鈍器をゆっくりと下ろした。僕は安堵から視線を下に落とし、二人の足元に目を向けた。少し間があり、ドラえもんの足が一歩僕に近寄った。ドラえもんのかかとが浮き、僕に体を寄せる気配がした。顔をあげると、ドラえもんの顔は僕の耳元に来ていた。鏡越しのドラえもんは赤ん坊のような無垢の笑顔をしていて、そっと僕に囁いた。
「はじまりとおわり」
反転し繰り返すはじまりとおわりの中で、記憶の中の真円のドラえもんの顔がだけが歪んでゆく。