日直地獄

小学校では事件が起きる

空気読めと叫んでみれば

「空気読め」が多発している。これは単なる流行ではないとおもっている。単なる言葉として使われて遊ばれているだけでなく空気が「空気読め」に支配されていると見ます。いつごろからこの言葉が(不当に)多発されるようになったのかは知らないけれど、もし急速に使われるようになった時期があるとするならばその原因は何なのだろうか。たとえば「場を読む」という言葉と「空気を読む」は類似の言葉だけど、「場を読む」の「場」は何か確固たる場面、具体的な状況であり、「空気読め」の「空気」は透明で確認不可能なものであるという点で異なってくるんじゃないか、その分「空気読め」は使いやすいんじゃないかしら。そして従来の日本人の美徳、協調性が大いに作用して、声高に「空気読め!」と叫んだ者が空気を支配してしまう、ということはないだろうか。たとえばでっかい声で「空気読め」と叫ぶ青年は自分が空気を読めてないとは思っていないように見えるし、もしくは必ず一人「空気が読めていない」落としどころを決めているように見える、きっとそっちの方がコストパフォーマンスがよろしいのね。ならばそこで勝手に落としどころに任命された人は「お前の空気はわかったけど、俺の空気はどうなってんだ!」と返してみましょう、きっと周りがオロオロして楽しいよ!(声高に叫んだときにそれはもうすでに空気じゃないよねっておもうんです空気信仰者は馬鹿だと思うんです。とかいっちゃったら周りから無視されるよ、これも誰か言ってみて)


つまりまとめると誰かAutoAirReaderなるマシンを作ってくださいということです。


なにこのちぐはぐ文章。誰か解説して!